昭和44年04月25日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」とこう仰る。では御霊の世界というか、形をなくされたら金光大神の働きというものは、いわばあまかけりくにかけりとでも申しましょうか。自由無碍な働きを現しておいでられる事が出来るほどしの、御神徳を受けておられたということでございますが。ここで私は分からせて頂かなければいけない事は、金光様を唱える。金光様っとこうお唱えをする、そこに金光大神の働きを受ける事が出来ると。いうこともこれは大変有り難い事ですけれども。
その金光大神をね、頂きに頂ききっておくということだと思うんです。もう来て下さい。お願いしますと言わなくてもね、私の心の中に生神金光大神が生き生きとして、何時も働きかけておって下さり、何時つぅもそこでお取り次ぎが頂けれると言う様な状態。そこんところを私は頂いておきたいとこう思うんです。それは生神金光大神唱えるところへ、そこにはそのうもう時間も実は空間ももうないでしょう。まさかの折には天地金乃神というに及ばん、金光大事助けてくれといえば助けてやると仰る。
それも実をいうたら金光様を全部言うてしまわんでも、心の中に金光様っとこう思うただけで、金光大神の働きはお取り次ぎはもう頂いたと同じ事のおかげが受けられる。けれどもそれよりもおですやはり金光大神来てくれと、金光大神お出でて下さいと。金光様お願いしますと言わんでも、自分の心の中に金光大神が生き生きと生きてござる。心の中に。そこでもう一つここに思わせてもらう事は一心ですね。まさかの時に立つのが一心。難儀な時に一生懸命願うそこ心が一心だけれど。
一心の願いの中に、金光大神をいわばここにお迎えする事が出来る。ということと同時にですね、有り難いという心真に有り難いという心。信心させて頂かなければ頂けない有り難いという心。その有り難いというその心に金光大神が宿っておって下さる。一心に願って金光大神に来て頂くという、それもここでは分からせてもらうけれども。それよりも金光大神に何時もここに宿って頂く。もう私は金光様の信者じゃから、私は何時も金光様をお唱えしておるから、毎日お参りをしておるから心に宿っておると。
金光大神が宿っておって下さるんだと、言う訳にはいかんのである。金光様の金光大神の宿り場というのは、やはりしん金光大神の信心を頂いておる者が、そして金光大神の御教えによって、自分が助かり救われ。何時も金光様有り難うございますという、寝ても覚めてもの、有り難いと言う様な心。そういう心に神様は宿り宿り付いて下さる。ですからそれの方がそういう、おかげを頂きたいという願いを持つ事が、ここでは大事だとこう思うんですね。
皆さんがよくここで言われる事は、まさかの時には「金光様」と言うことよりもね、「親先生」というた方がおかげが受けられる。これなんかはどういう意味だろうかと。金光様。昨日久留米の記念祭に皆さんあぁしておかげを受けまして、帰らせて頂いて、二、三時間も致しました頃でしょうか、あちらから電話が掛って参りまして、福岡の古谷さんが、行っておられたらしいんです。後からとにかく久留米で乗り、降りそこのうてからね、佐賀まで行ったち。
それから佐賀からと戻してござったもんじゃから、もう皆帰った後にいっちゃる訳ですね。昨日のあのご大祭の委員長をしておられました、大分教会の八坂先生とはあぁまぁ御入魂の仲で仲なもんですから、御挨拶だけぐらいしたいというのでまぁ佐藤先生もご承知だそうです、昨日の講師ですねそれでまぁ御挨拶するだけさせて頂こうというて、まぁ裏へ行かれてまぁどう言う事からか知らんけれど。まぁ一遍合楽に来て下さいというので、八坂先生と佐藤先生がこちらへ見えるちゅうて電話が掛って来たんでよ。
そりゃもうあんた大変な丁度まだせんの方達が五、六人残っていましたし、秋永先生高橋さんもまだおりました。あれからまぁその慌てるって、別に慌てる事もないのですけれども、まぁ急なお客さんですからね、そういう偉い先生方ですから、お粗末があっちゃならんと思いますから、まぁそしたら間もなくその迎えに来てくれといわれる、電話が掛ったらもう直ぐ向こうの方から、もうタクシー拾うてやって見えとられるね。
それでその佐藤先生も御一緒の筈であるところが、まぁそりゃそうでもありましょう。まぁ久留米の方で後色々とまぁお持て成しをしなければならないし、それに合楽の方へポンとこられたんじゃこまかろというんで、もういかれる事になっておったのを、が引っくり返ってまぁお見えにならなかったですもん。夕べもう八時ぐらいの次はお帰りにならなきゃばならないというのでですね。まぁ八坂先生だけがお見えられておる。ほりゃもうここが教会問題の時に。
まだ先生がご本部の先唱をなさっておられる頃に、まぁ大変色々お世話になったお方ですから、もう本当にあのどんなにしてお礼を言う手いいやら分からん程に、その当時合楽当時の椛目のためにいわゆる、まぁ尽力くださった方なんです。ほれで昨日まぁ後から有り合わせで一献差し上げさせて頂きながら、もう話は信心話ばっかりでございましたが、まぁ合楽の信心というのが、非常にそのう御比礼が立って、人がどんどん助かっておるという事。だからその助かるという事だけじゃいけんのだと。
だからもうこちらの先生はまぁ仕方がないから、いわゆる若先生にここんところだけは分かっとってもらわにゃならんと言う様な、そのお話をして下さったんです。いわゆるおかげじゃ集まらん、信心を頂いておってくれとこういうことなんですよね。まぁそういう風に一般にはまぁ合楽の信心はまぁ見られておるわけです。まぁまた事実そうでもございますけれども、その中にそのう秋永先生との一問一答があったんですよね。それはもう実に鋭い事でした。その中にです秋永先生がこう言う事を言っております。
私らはね天地の親神様も分からんし、金光大神もどんな方か分からんのだと。けども現にここに大坪総一郎という、いわゆる私共の親先生はここにぜんぜんとしてあるんだと。私共は金光大神は分からん、天地の親神様は分からんけれども、大坪総一郎というその人と、その人の信心を日々頂いておるんだと。そこからです金光大神が少しは分かるようになり、天地の親神様の働きが分からせて頂くようになって来たというたら、はっというてからそのまぁ言うておられますようにですね。
なら秋永先生の心の中に何時もあるものは、金光様ですけれどもいわゆる親先生なんです。ですからその親先生がですよ、親先生が何時も金光大神の働きを現していける。親先生が現すのじゃない。金光大神親先生のこの中に何時も宿ってござるから、同じ働きが出来るのだ。そこから金光大神を親先生を通して分かる事が出来るのであり、天地の親神様の働きを、もう目の当たりに見聞きする事が出来るのだと。なるほど天地がバックといわれるが、天地の親神様のご信用を受けておられるというが。
これが天地のご信用を受けておられる人の姿であろうか。金光大神が何時もここにあって宿ってござる人の信心であろうかという風に、まぁお互い分かって行く訳なんです。そこからはっきり金光大神取り次ぎの、道の働きというものがなされて。ところがどうでしょういくら親先生というても、私の心の中に有り難いものが宿っていなかったら。昨日もお休みになる時に私と豊美と寝間取ってございますところへ、一緒に参りました。お休みになる前に、親先生なかなか、非常に何ていうですかね。
いろんなまぁ例えていうならあのう、絵とか書なんかを見られる事が非常にお好きでもあるでしょうし、大変なら詳しいですね。どの部屋にまいりましても、そのまぁかかっておりますその絵をいろいろまぁ見て下さったんですけれども、そのご覧になりながらです、大坪先生一言お伺いしますとこう言われる。何でしょうか。先生が御結界にご奉仕になる神髄は何でしょうか。とこういわれるんですよね。もう休まれる寸前です。はぁそげん難しい事言われても私は何も分からんのですけれども先生。
私が御結界でね有り難うさえなっときゃ人が助かるんですよ。あっ分かりました。有り難うございましたと。それだけでした。御結界で先生が奉仕をされる、その神髄は何かと。神髄とか何とかその難しい事いわれても、私には分からんけれど、御結界で私が有り難うさえなっときゃ人が助かるんですよと。そこでなら合楽ではどういうことを私が教えておるかというと、その有り難うならせて頂くためには、成り行きを大事にしなさいよと。その成り行きそのものが神様の働きなのだから。
いよいよより豊かに又より明るくならせて頂こうと、精進する努力するだけでそれが神様へ通う、お喜び頂くから有り難くなれるんだと。限りなく美しゅうならせて頂きましょうと。合楽の合言葉のように言うこと。その事だってです美しゅうなるためには、まず改まらなければならん、磨かなければならん。まず垢を落とさなければならん。それを磨きあげていかなければ美しゅうはならん。本気で美しゅうなろうというところに、問題が無くなる。我情我欲がなくなるから。
本気で美しゅうならせて頂こうというところにです、神様の感動を引くというか、呼ぶというか。そこにお互いの心の中にです、有り難いものが絶えず頂けれるのである。真の信心といわれるけれどもまぁ具体的にいうなら、いわゆる私がここで皆さんに聞いて頂いておるようなですね、真の信心させて頂こうと願うなら真の修行せなきゃならんと。そりゃそうでしょうが真の信心真の信心というても、その真の信心から外れた修行をいくらしたって何にもなりゃしません。
それにはやはり真の修行をしなければ真の信心には入っていけない。その真の修行を私は只今申しますようなね、限りなく美しゅうならせて頂きましょうや。本気でより明るくより豊かな私にならせて頂こうと。いよいよ神様の私に求めたもう信心。私に求めたもう修行。いうなら成り行きが私に求めて下さるその事を、大事に実意丁寧に受けていこう。元気な心で合掌して受けていくんだと、そういう生き方こそを私は真の信心の、又真の修行だと私は、皆さんにも聞いてもらっておるわけんだけれども。
そういう信心の出所というのが何処からかというと、やはり大坪総一郎から出て来ておる。いわゆる大坪総一郎のいうならば、私は専売特許と言う訳でもないでしょうけれども、いわば合楽の信心なのだ。そういう信心させて頂く所から、有り難いものが頂けるその有り難いものに、金光大神は何時も絶えずこれに宿っておって下さるんだ。だから皆さんが金光大神、天地の親神様と言わなくったってですね、親先生といやそこに親先生の働きというのじゃなくて、金光大神のお取り次ぎの働きがそこに頂けれるんだと。
という事がいえますですね。「金光大神は形がのうなったら来てくれと言う所へ行ってやる」そこんところを皆さんは、まさかの折には「金光様」と又は「親先生」という、その事にもなりますけれども、それは同んなし事。二つの呼び名のようであって実は一つなんだ。金光大神即親先生であり、親先生即金光大神である。ならその親先生たるもの。どういうことでなからなければならんかというと、私は八坂先生に申し上げたように、私がここで有り難うさえなっときゃ人が助かるんですよと。
そこで心の中にですね、有り難くなるとの反対のような事は、思いもしゅうごとなくなってくるわけですよ。首の骨折なら有り難いとはいっぺんに効く。とんでしまうと言う様なこたぁ知るごとなくなるごつなって来る。例えていうならです。人間心、変な人間心なんか使おうとなくなって来るて。まぁ例えていうならですね、例えばその嘘をいうというと言う様な事があるね、いかに自分の心の中に有り難いものを消して行く事かと。
いうなら教えに反する事がいかに、自分の心の中の有り難いというものを虫食んでいくかと言う事をです、分からせて貰ったが最後ですね、やはり教えに忠実に行それを行じて行く以外にはないのだ。金光様のご信心とは。馬鹿らしい。ところが私共の場合はです、そういうなら浅ましい心も起きてもまいりますけれどです、そこに私共はお詫びという信心を知っておる。
生身の事でございますから凡夫の事でございますからと、平身低頭詫びる所にですね。その詫びが叶うたのではならろうかと思われる程しに、自分の心の中に有り難いものがやはり絶えず頂く事が出来る。その有り難いという心に金光大神が宿って下さる。又は一心を持って「金光大神」と唱えるところに、金光大神のお取り次ぎに働きは、いわゆるあまかけりくにかけり、そこに金光大神の働きを現して下さる事が出来る。
私共はその両方をですね、やっぱし頂いておかなければなりませんけれども、理想とするところ。願いとするところは、もう絶えず来てくれ来て下さいといわんでも。自分の心の中に金光大神が宿り続けて下さる、心の状態こそ願いとしての信心でなからなければならんという事を思うんですね。今日はご理解19節を頂きました。「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」と。
ですからここで皆さん間違えんようにせにゃならん事は、親先生といや助かるという事は、親先生にそういう力があるというのじゃない。ただ私の心の中にある有り難いというものがです、金光大神の働きを働き足らしめる働きになって来るというだけ。ことにまぁなるんですね。これはだから私だけの事じゃありません。皆さんとても同じ事。結局信心とは有り難くならせて頂く稽古だと。という事が言える訳ですね。
どうぞ。